【名古屋】名古屋城 – 徳川家康の命によって誕生した、日本の城の最高到達点

【名古屋】名古屋城 – 徳川家康の命によって誕生した、日本の城の最高到達点

名古屋の名所といえば、青緑色の屋根に金のシャチホコで有名な「名古屋城」と多くの人が答えるでしょう。これは、名古屋市が行った調査(都市ブランドイメージ調査)でも証明されていて、名古屋市民からも、他都市の人々からも、名古屋の魅力観光資源第一位は「名古屋城」と答えられているのです。と、いうことでせっかく名古屋に行くのだから、名古屋城へ行ってきました!

と、名古屋へ向かう前にこんな本を買いました。『日本100名城公式ガイドブック』には100名城の情報はもちろん、スタンプ帳が付いています。これを機にちょっとずつ城めぐりをしていけたらいいなぁという目論見なのですが、100名城の中には、近年訪れたばかりの弘前城(青森県)も入っているので、コンプリートまでの道は長そうです。しかも、意気込んでスタンプ帳を買ったにも関わらず、名古屋城に持って行くのを忘れて結局スタンプを押せず・・・(がっくり)。今は天守閣が復元中で入れなかったので、復元後にまたおいでということですね!

名古屋城

名古屋城の生い立ち

江戸幕府を開いた徳川家康は、豊臣氏の財力を削ぐため二条城(京都)をはじめ、彦根城(滋賀)、江戸城(東京)などを豊臣氏恩顧の大名に天下普請で築城させ、大坂城(豊臣氏の居城)包囲網を形成しました。その最後として築かれたのが、江戸(徳川)と大坂(豊臣)の中間地点にある巨大城郭「名古屋城」です。

▲ 様々な大名が複雑な担当分けで築城した名古屋城。石材の紛失や諍いが起きないように石には藩のマークが入っています。

日本の城の最終完成形

天守が築かれていたのは、織田信長の建てた安土城(現存せず)から、江戸時代に入って太平の世が訪れるまでのわずか60年ほどの期間だと言われています。戦乱の世でより強固な城を作ろうと天守の建築技術は急速に発達しましたが、名古屋城よりも大きな城郭が新たに築城されることはありませんでした。

江戸時代に入ると、新しく城郭を築いたり、修復したりすることが徳川に対する謀反の兆しと捉えられ、滅ぼされる原因となり得るため、築城がご法度となったため。そういう理由から、徳川の命で築城された名古屋城はその時代の最高到達点だったのです。

築城の名手・加藤清正によって設計された名古屋城は、その規模で徳川家の威光を世に知らしめているだけでなく、防御力においても最高レベル。同じく加藤清正が築城した熊本城同様、鉄壁の守りが施された防御施設でした。

▲ 最初はなだらかだけど、最後の方になるとほぼ直角になる「扇の勾配」の石垣は誰もが引き返す為「武者返し」とも呼ばれます。

木造天守閣復元プロジェクト

1929年に国宝第一号に指定された名古屋城は、1945年に第二次世界大戦の戦火により焼失してしまいました。その後、鉄筋コンクリート造で再建され半世紀以上が経ったいま、老朽化や耐震性の問題が発生。そのような問題や名古屋城の本質的価値を促進するため、天守閣の木造復元が開始されました。2022年12月の竣工を目指し現在も奮闘中です。

名古屋城にいたっては、戦火で焼失する前に作成された豊富な資料(昭和実測図やガラス看板写真など)が残っています。それを元に精密に記録・製図を行った実測図が完成したのは1952年のこと。また、江戸時代の名古屋城の百科事典とも呼べる「金城温古録」も残っていて、金具類にいたるまでの全てを忠実に復元できるのは日本で唯一名古屋城だけとのことです。

と、いうことで今回は残念ながら天守閣には入れませんでしたが、2018年に復元完成した本丸御殿を楽しんできました。

▲ 名古屋城正門

正門を潜り少し歩くと金のシャチホコのレプリカがあります。ここではカメラマンさんが写真をとってくれて、気に入れば購入できるという、お決まりのシステム。デジタル写真の購入(300円)も出来たので、買ってみました♪

顔は虎、体は魚のシャチホコ(鯱)は、城を火災などから防ぐ守り神として掲げられました。鯱鉾を飾っているお城は他にあれど、金色の鯱鉾は名古屋城だけ。純金200キロ以上が使われていたらしい。それは、大名達の資金力を大きく削ぐことが出来たのでしょうねえ。

シャチホコのレプリカからまっすぐ歩くと見えるのが、青緑の屋根の天守閣と、西南隅櫓。さらにまっすぐ歩みを進めると本丸御殿へと続く門(表二之門)があります。

本丸御殿

本丸御殿は、尾張藩主の住居かつ藩の政庁として使用されていた御殿で、徳川家康の命により1615年に完成しました。名古屋城の本丸御殿は、二条城の二の丸御殿とともに“武家風書院造りの双璧”と言われ、1930年に天守閣とともに国宝第一号に指定されたほどの貴重な建築物でした。

第二次世界大戦の空襲で焼失しましたが、復元を望む声が多く、2009年より復元工事に着手。総工費150億円、10年の歳月をかけ、2018年6月8日に全体公開となりました。復元された建物はもちろん新しくピカピカなのですが、工法は当時の技術を継承しています。樹齢数百年の木曽の檜など資材も可能な限り当時と同じものを使用しているそうです。

▲ 玄関

見学が始まって最初に目につくのがこの虎の絵が描かれた部屋。本丸御殿を訪れた人が藩主との謁見を待つ控えの場所。今にも動き出しそうな虎がどの面にも描かれており、待っている間も緊張しっぱなしですね・・・

▲ 本丸御殿玄関廊下

この部屋は創建時、藩主と来客や家臣との正式な謁見の場として最高格式を誇った場所。奥の松の木が描かれている部屋は、床が一段高くなっていて、徳川義直(初代尾張藩主)が着座したらしいです。

▲ 表書院上段之間

金がふんだんに使われて煌びやかな本丸御殿では、細部にもこだわりが見られ、出ている釘の頭部を隠す釘隠しもその一つ。場所や格式によって形は異なるのですが、これは6片の葉の形をしていることから「六葉釘隠し」と呼ばれています。

こちらのリスとぶどうが描かれている飾り金具、廊下に何枚も飾られているのですが、実はモチーフは同じでも絵柄が全て違うんです。

江戸のお殿様が上洛の際に使用する上洛殿の上部にはきらびやかな彫刻欄間が飾られ、贅の限りを尽くすとはこのことか、と納得しました。

▲ 彫刻欄間
▲ 上洛殿

こちらは江戸のお殿様をもてなす武士たちの控え室。武士といっても上流武士のための部屋なので、壁には格式高く金箔を貼っているのだとか。だけど、天井は一番格式の低いもの、と部屋によって如実に格式の違いがわかる部分が面白いですね。

それにしても大きなお屋敷で、当時ここに使えていた人たちは移動するだけでも大変な労力を要したのではないのかと想像します。徳川一族の居城、名古屋城だからここまで豪華絢爛な御殿が出来たのだろうと納得するとともに、江戸時代の日本の中枢機関、江戸城の広さは一体どれほどだったんだと思わずにはいられません。皇居の敷地を見ればわかるのですが、それでも想像がつかないほどです。復元ではありますが、当時の御殿を実際に自分で歩いて見学できるというのは貴重で興味深い体験でした。

2022年12月に竣工を目指している名古屋城木造天守閣。名古屋城の特徴とも言える青緑色の屋根は実は錆びて出てきた色。復元では赤褐色か黒色の屋根になるらしい(年月が経つと錆びて青緑色になる)です。イメージ通りの青緑色の名古屋城を見たい方は今のうちに、木造で忠実に再現された名古屋城を見たい方は2023年頃に、もしくはどちらも見学して見てはいかがでしょう。

名古屋城

住所愛知県名古屋市中区本丸1-1
電話番号052-231-1700
開園時間9:00 – 16:30(ただし本丸御殿絵の入場は16:00まで)
* 現在の天守閣は耐震性が低いことに対応するため入場禁止(閉館)となっています
休園日12月29日 – 31日、1月1日
入館料【大人】500円
【中学生以下】無料
ウェブサイトhttps://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/