【軽井沢】軽井沢ゴルフ倶楽部 ① – 白洲次郎が愛した日本一の名門リゾートコース

【軽井沢】軽井沢ゴルフ倶楽部 ① – 白洲次郎が愛した日本一の名門リゾートコース

例年以上に暑い日が続く今年の夏、出来る事なら都会を離れて涼しい高原で過ごしたいものです。高原の避暑地として日本で最も有名で人気が高いのは長野県の軽井沢ではないでしょうか。

その軽井沢には数多くのゴルフ場がありますが、有名なのは毎年夏の風物詩とも言える「NEC軽井沢72ゴルフトーナメント」が開催される西武・プリンスホテル系の「軽井沢72ゴルフ」でしょう。全部で6コース、108ホールの一大ゴルフリゾートです。

今年の「NEC軽井沢72トーナメント」は8月12日から軽井沢72ゴルフ北コースで開催されましたが、昨年プロテストに合格したばかりの20歳のルーキー岩井千伶選手が初優勝を飾り、また女子プロゴルフ界に新しいヒロインが生まれました。2打差の首位で迎えた最終日は初めて最終組でのラウンドでしたが、実績のある強豪選手達との息詰まる接戦を見事一打差で制しました。常にピンを狙う強気のゴルフと、新人とは思えないリラックスした笑顔でのプレーが印象的でした。

因みに新ヒロイン岩井選手は翌週箱根で行われた「キャットレディース」でも同じく接戦を制し、史上3人目となる初優勝からの二週連続優勝の快挙を達成しています。

軽井沢は浅間山の南側山麓標高1,000m付近に広がる高原地帯で、年間の平均気温は東京より6~8℃程度低く、真夏の8月でも平均気温が20℃台と過ごしやすい高冷地気候です。また軽井沢は年間100日と言われるほど霧が多く、この霧がもたらす「霧下気候」により体感気温は更に冷涼に感じられます。周辺にはモミ、ミズナラ、コブシなど多くの樹木が自生する自然林や何本もの並木道があって、その清涼な気候をより瑞々しく感じさせ避暑地として最適な環境が揃っています。

かつての軽井沢は江戸と京都を結ぶ街道・中山道の宿場町として多くの旅籠や茶屋などが建ち並び、難所の碓井峠を控えた交通・軍事の要衝として栄えていました。ところが明治時代になると新たな国道が整備され、更に1893年には急こう配用のアプト式ラックレールを採用した官設鉄道信越本線が開通すると旧宿場町はその役割を終えて衰退していきます。

しかし軽井沢の歴史はそこで終わりませんでした、爽やかな高原の気候を活かして新た時代に避暑地として生まれ変わるのです。

軽井沢を避暑地として有名にしたのが英国聖公会の宣教師アレクサンダー・C・ショーである事は良く知られています。

彼はスコットランドの貴族家出身で1846年英領カナダのトロントで生まれ、1873年英国聖公会初の日本宣教師として来日しました。当時東京・築地にあった外国人居留地を拠点に布教活動を行い、その傍ら福沢諭吉の知遇を得て慶應義塾で英語やキリスト教倫理学を教える事になります。1879年には福沢の援助もあり都内芝公園の地に聖公会の主教座聖堂となる「聖アンデレ教会」を献堂しています。

英国人外交官アーネスト・サトウの著書で軽井沢の事を知ったショーは1886年に療養と避暑を兼ねて訪れ、どこか祖国にも似たこの地に魅了されました。そして1888年養蚕農家を移築した簡素な別荘(現・ショーハウス記念館)を造って生涯の避暑地とすると共に、1895年には教会(現・軽井沢ショー記念礼拝堂)も建て布教活動も始めました。

この話が外国人の間で広まると、続々と彼らが訪れるようになり避暑地軽井沢が脚光を浴びる事になります。当時故国に帰るには数週間の船旅となる彼らにとって郷愁を誘うこの地は単なる避暑地ではなく、仲間と集って故国を思い、教会で祈りを捧げる特別な場所となった事でしょう。

当初ショーらが逗留したのは街道筋で休業状態だった旅籠「亀屋」ですが、経営者だった佐藤万平は時代の変化を感じて洋食や西洋の生活様式を学び、1902年に旅籠を移転して軽井沢初となる洋式の「万平ホテル」を開業しました。

1906年にはゴシック風の華麗な外観を持つ「三笠ホテル」(歴史的建造物として重要文化財指定)が開業すると連日ダンスパーティーや音楽会が開かれ、夏場の「鹿鳴館」と呼ばれる華やかな社交の舞台になると国内外から多くの著名人も訪れるようになります。

また戦時中は多くの外国人や外国公館の疎開地となり、戦後は主要なホテルや別荘、ゴルフ場が米軍に接収されますが、当時は外務省軽井沢出張所が開設されるなど日本にありながら日本的でない不思議な土地でもありました。

高原の清々しい気候風土のみならず、このような歴史的背景もあってか西洋風の雰囲気が漂うハイセンスな避暑地として軽井沢の名声は益々高まり、更に多くのホテルや別荘が建てられて日本を代表する高級リゾート地としてのステータスは不動のものとなりました。

ビートルズのジョンレノンが1980年ニューヨークで暗殺される前年までの4年間、毎年軽井沢を訪れ「万平ホテル」に滞在し、家族と幸せな時間を過ごしていた事は今や伝説ともなっていますね。オノヨーコ夫人といつも飲んでいたロイヤルミルクティーはホテルの定番メニューとなり、彼が弾いていたピアノがロビーに展示されています。

そしていま、高速道路や新幹線が開通し東京と1時間程で結ばれるようになると、大型リゾートホテルや大規模ショッピングセンターなどが開業し、若者を含め多くの人々が訪れるようになりました。その為軽井沢は以前のように一部の上流階級層がひと夏を別荘で過ごす避暑地から、一般大衆も楽しむリゾート地に変わりつつあります。

その変わりゆく軽井沢にあって依然としてクローズドな会員制倶楽部として高いステータスを維持しているのが、今回ご紹介する「軽井沢ゴルフ倶楽部」です。

「NEC軽井沢72トーナメント」を開催する「軽井沢72ゴルフ」は空いていれば誰でもプレーする事が可能なパブリックコースです。その対極にあるのがこの「軽井沢ゴルフ倶楽部」で、夏場のハイシーズンは原則メンバーのみしかプレーできず、他の季節でもメンバー同伴か紹介がないとプレーできないメンバーシップコースなのです。

その歴史は1919年にさかのぼります。当時夏の軽井沢に集まる外国人や上流階級の日本人の間でゴルフ場を造ろうと言う機運が高まり、「軽井沢ゴルフ俱楽部」が設立されます。

会員募集案内は英文、役員は日本人8人と外国人9人で、会長には貴族院議員の徳川慶久公爵が就任しました。彼は江戸幕府最後の将軍慶喜の子息であり、夫人は有栖川威仁親王の王女と言う国内有数のエスタブリッシュメントですが、ゴルフはもとより乗馬や柔道、絵画や囲碁にも優れた才気縦横の人物だったそうです。

そして1922年旧軽井沢離山御膳水に土地を借り、3744ヤード、9ホール、パー36のコースを造りました。設計はセントアンドリュース生まれのプロゴルファーで当時東京ゴルフ倶楽部のコーチとして来日中だった英国人トム・ニコルです。

日本で7番目に出来たゴルフコースで、開業翌年には摂政宮殿下(後の昭和天皇)も訪れてプレーされたそうです。当時のコースにはクラブハウスはなく食事は各自の別荘でとっていました。

その後、ゴルフ人口が増え会員数も増加すると18ホールの本格コースが切望されるようになり、南軽井沢の南ヶ丘に新たな用地を購入して新コースとクラブハウスを建設しメンバーと共に移転する事になりました。

1929年に発起人会ができると水戸徳川家当主で後の貴族院議長徳川圀順公爵や後の総理大臣近衛文麿公爵など8名が名を連ねました。また当初のメンバー193名には外国人37名の他、日本人では皇族や華族、三井・三菱などの財閥家や政治家など主に東京ゴルフ倶楽部の会員が連なり、戦前の階級社会の頂点の人々が集っていたことが窺えます。

1931年新たな「軽井沢ゴルフ倶楽部」が9ホールで開業、翌1932年に18ホール、6,573ヤード、パー71が完成しました。設計は同クラブ発起人の一人でもある小寺酉二で、慶應大学やプリンストン大学で学んだ名アマチュアゴルファーでもあり、日本のゴルフ界をけん引した人物です。

彼は1グリーン正統主義で知られ、他にも名門「相模原ゴルフクラブ」や「狭山ゴルフクラブ」「嵐山カントリークラブ」などを設計し、同クラブの理事長なども務めています。多くのコースが2グリーンとなる中、いまでも1グリーンを維持する「軽井沢ゴルフ俱楽部」は文句なく彼の代表作と言えるでしょう。

一方、移転後に残された旧軽井沢ゴルフ倶楽部はどうなったのでしょう。

返還を受けた地主がパブリックコースとして営業したものの1943年戦争激化で閉鎖され、戦後は米軍に接収されました。しかし、接収解除後には歴史あるゴルフ場を残せと言う運動が起き、別荘開発で軽井沢に進出していた建設会社鹿島組(鹿島建設)の鹿島守之助が1947年に私財を投じて全敷地を買収します。そして東急の五島慶太など出資者100人を募り荒れ果てたコースを再生「旧軽井沢ゴルフ倶楽部」として蘇らせたのです。

1955年には12ホール、4,090ヤード、パー49に拡張、その後も1989年から創立70周年に向け米人設計家J・M・ポーレットの手で3,986ヤード、パー48に改造され、今も美しい景観と伝統を誇る名門コースとして「鹿島の森」に鎮座しています。

一方、新たに移設オープンした「軽井沢ゴルフ俱楽部」ですが戦況悪化により旧軽コースと同様に閉鎖となり、戦後は米軍騎兵師団に接収され乗馬や飛行機の訓練施設となりました。1951年接収解除となった翌年に白洲次郎氏が理事に就任、その後理事長に就任しました。戦後の「軽井沢ゴルフ俱楽部」はこの白洲次郎氏を抜きには語れません。

彼は1902年に芦屋で元三田藩士の綿貿易商を営む裕福な家に生まれ、神戸一中卒業後ケンブリッジ大学・大学院に進学し、友人を通して英国貴族の生活を実体験しました。祖父がミッションスクール神戸女学院の創設に関わり、自宅に外国人教師が起居していた事で幼い頃から英語に慣れ親しんでいたようです。

1928年に帰国すると英字新聞の記者や英国系貿易会社を経て、1939年に37歳の若さで現在の日本水産の取締役となりました。この頃から駐英大使だった吉田茂や近衛文麿などと親交を持ちます。しかし、戦争の足音が近づくと米英との国力差を知る彼は戦争反対の立場を貫いて実業や政治の世界から距離を置き、東京郊外・町田の古い農家を買って移り住み「武相荘」と名付けて晴耕雨読の生活を始めるのです。

そして戦争が終わるや吉田茂に請われてGHQとの折衝にあたり、貿易を一手に取り扱う貿易庁長官などの要職について復興政策推進に尽力しました。GHQとの交渉でも主張すべき事は曲げず、時にマッカーサー司令官に対してさえ諫言して「従順ならざる唯一の日本人」とまで言われた逸話が残ります。

更に、日本国憲法の成立に深く関わり、1951年日本が主権を回復するサンフランシスコ講和条約締結においても、吉田茂首席全権を外務省顧問として補佐する役割を果たします。その後は政界入りを断って実業界に復帰し東北電力会長はじめ多くの企業の経営に携わり、戦後日本の基礎を作った人物の一人と行っても過言ではないでしょう。1985年に83歳で亡くなりましたが、彼の遺言状には「葬式・戒名無用」と記してあったそうです。

1951年の講和条約締結で肩の荷が下りた彼は同時に接収解除となった「軽井沢ゴルフ俱楽部」の理事となりゴルフに興じます。英国留学中はゴルフをせず帰国後28歳になって始めたそうですが、ハンディキャップは何と2にまでなっています。

1982年に理事長となると倶楽部のモットーに「PLAY FAST」を掲げ、自らもこの文字を染めたTシャツを愛用しました。

ポルシェ911Sを飛ばしてクラブハウスに乗り付けるとテラスの時計の下に座って睨みを利かせ、ティーグランドで素振りをするスロープレーヤーには誰であろうと遠慮なく注意したそうです。「まして下手がラインを読むなどもっての他、打数が多いなら一打の時間を短くしなければならない、一人だけが時間を多く使う事は許されない」と言う事だそうです。

また、メンバーの為だけのプライベート倶楽部と言う事が徹底されている事も特徴です。

倶楽部の運営は株式会社でも社団法人でもなく、同好の士が集まり自らが規則を決める任意団体です。倶楽部の目的として「会員の練習に供し、親睦を図る事」と定められている事がそれを象徴しています。

ある日曜日に田中総理大臣が駐日米国大使を伴ってプレーしたいと訪れた時、白洲理事長は「日曜はメンバーズオンリー」と断ったと言う有名な逸話が残っています。これもプリンシプルを重視する白洲氏がプラベートクラブの原則に沿った対応をしたと言う事でしょう。 (②に続く・・・)

軽井沢ゴルフ倶楽部

住所 長野県北佐久郡軽井沢町長倉南ケ丘 3000

TEL  0267-42-2220