今や英米と並ぶゴルフ愛好国となった日本ですが、1902年設立の神戸ゴルフ倶楽部が日本ゴルフ発祥の地であり、その歴史は今年で丁度120年です。当時神戸の居留地に住む外国人が六甲山上に別荘を構え、日本初のゴルフコースも作りました。
一方、関東では1906年外国人居留地に近い横浜の根岸競馬場内に外国人用のゴルフコースが併設されましたが、東京にも日本人の為のゴルフ場を造ろうと言う動きが起こります。これを推進したのはニューヨーク在住時代にゴルフを経験して帰国したビジネスマン達で、日銀総裁や大蔵大臣を歴任した井上準之助や井上の親友で滞米20年以上の経験を持つ実業家樺山愛輔(白洲次郎の岳父)や森村市左衛門(森村財閥当主)らです。そして神戸から遅れる事10年余、1914年に東京・駒沢村に「東京ゴルフ俱楽部」が開場しました。当時の駒沢村は明治天皇がウサギ狩りの行幸されるような原野であったそうです。
コースは9ホールで全長は2,000ヤード程度と言うこじんまりしたものですが、日本で初めての日本人の手による日本人の為のゴルフコースで、まさに日本におけるゴルフの原点とも言えるでしょう。クラブハウスは上野不忍池にあった「大正天皇即位記念大正博物館」の迎賓館が移築されたそうです。
しかし、9ホールでは物足りないと感じるメンバー達により。1921年に「程ヶ谷カントリー俱楽部」として独立すると言う事態も起きています。
1922年には摂政宮時代の昭和天皇と英国皇太子(プリンスオブウェールズ)との親善マッチと言う歴史的イベントが開催されています。
その後、1926年には18ホール・パー36に増設されましたが、敷地面積が狭い上に借地であった為、地代の値上がりや周辺の宅地化の問題が大きくなり、1932年埼玉県に新たに土地を購入して移転する事になります。イギリスの署名な設計家C.Hアリソンを招き、深いバンカーや池を配した全長6,700ヤード・パー74の本格派コースは芸術的とまで評され、白亜3階建てのクラブハウスと共に東洋一と言われました。ここには米国から名選手ジーン・サラゼンやホームラン王のベーブ・ルースなどが訪れ、日本オープンゴルフ選手権の会場となるなど日本ゴルフ史の輝かしい1ページとなりました。
しかし、平和な時代は長く続かず戦火の足音が近づく中、1940年に予備士官学校用地として陸軍へ譲渡を余儀なくされ、東洋一の名コースは9年にも満たない短い歴史を閉じます。
終戦後は米陸軍のキャンプとなって約4千人の米将兵が駐留し、接収解除後は自衛隊の朝霞駐屯地となり東部方面総監部が置かれるなど首都防衛の拠点となっています。
尚、コース所在地の町名である朝霞の由来は倶楽部総裁であった皇族朝香宮鳩彦殿下からとったものだそうです。
一方、駒沢コースの跡地は東急電鉄に譲渡されパブリックゴルフ場となって学生ゴルフのメッカでしたが、1941年戦争が始まると同じく陸軍に接収され練兵場となりゴルフ場の歴史は終わりました。戦後は野球場が造られプロ野球「東急セネターズ」(日本ハムファイターズの原型)の本拠地となり、更に1964年の東京オリンピックではレスリングやバレーボールの競技場ともなり、現在はそれを記念した「駒沢オリンピック公園」として都民に開放されています。
さて、朝霞コースが軍用地となり行き場を失い、ゴルフどころではない世相の中で「東京ゴルフ倶楽部」は存亡の危機に立たされました。折しも同じ埼玉県の「霞ヶ関カントリー倶楽部」の隣接地でかねてから拡張工事中であった「秩父カントリー倶楽部」南コース18ホールが完成しました。同コースの設計は東京ゴルフ倶楽部メンバーの設計家大谷光明であり、同倶楽部とは重複する会員もいたことから、両倶楽部は対等合併して2度目の移転を果たし名称も「東京ゴルフ倶楽部」となりました。尚、秩父カントリー倶楽部の既存の北コースは戦時中に売却され、現在は住宅地となっています。
しかし、せっかく移転したものの戦争激化でこのコースも農地に転用されたり陸軍の接収を受け、戦後も進駐してきた米軍の接収が1953年まで続きました。因みに戦時下では敵性語の使用が禁止され「東京ゴルフ倶楽部」の名称も「東京打球会」に改称されました。再開された新「東京ゴルフ倶楽部」、コースは今日まで何度か改造が施されてはいるものの、基本的には大谷光明設計の開設当時の姿を留めているそうです。
全長7,215ヤード・パー72と距離もたっぷりあり、その上多くのバンカーが配された難易度の高い国内最高峰の名コースで、数多くの名コースを設計した大谷光明の作品の中でも最高傑作とされ、日本は勿論世界のゴルフコース100選などに選ばれ国内外から高い評価を得ています。
大谷は英国に長く住みゴルフを会得したことから、その設計思想にはシーサイドリンクスへの憧憬があると言われ、コースには他のコースでは見られないような大きく深いバンカーが多数配されています。正に砂の海と言えるでしょう。
また国内最高峰のゴルフトーナメントである「日本オープンゴルフ選手権大会」が1928年に駒沢コースで開催されて以来3コース合わせて7回開催され、2024年には8回目の開催も決まっている名実ともに日本を代表するゴルフコースと言えます。
1963年の創立50周年には朝霞コースのクラブハウスも設計したチェコ出身の著名設計家アントニン・レーモンドによる磨き丸太をたくみに生かした新クラブハウスが完成しました。2018年には国の「登録有形文化財」にも指定された名建築です。また創立100周年の2013年には米人設計家でリオオリンピック開催コースの設計も行ったギル・ハンス氏による改造が行われています。
また、丸太造りのクラブハウスは名門コースらしく簡素ながら静謐で落ち着いた雰囲気で、2階に上がると長い歴史と伝統を誇る東京ゴルフ倶楽部ならではの「史料展示室」があります。展示されているのは駒沢コース当時の「日英皇太子親善試合」などの写真やゴルフクラブ、菊の喪章付のトロフィー、朝霞コースでプレーしたベーブ・ルースの直筆サインなど貴重な資料が展示され、倶楽部の歴史に触れる事が出来ます。
その隣にはゆったりとしたソファが並び中央に暖炉が設えた談話室、その奥には装飾を抑えた品のあるレストランがあります。ロッカールームも無機質なスチール製のロッカーが並ぶ簡素なものです。
さて、コースですがグリーンはベント2グリーンで、朝霞グリーンと知々夫グリーンがあり、距離は朝霞グリーンで7,215ヤード、知々夫グリーンで6,959ヤードと距離はしっかりあります。
フェアウェーはフラットで広々としていますが、高い木々によりセパレートされた林間コースです。またバンカーは全部で117個もあるそうで、グリーン周りのガードバンカーのみならずフェアウェイのクロスバンカーも多く、更に朝霞コースのアリソンバンカーの伝統を引き継ぐ造形美はグリーン側のアゴが高いので入れるとほとんど出すだけとなります。
特に距離の短いホールは砲台グリーンの周囲を多くのバンカーが囲み、花道がないようなホールすらあります。しっかり止まる球で、攻める必要があります。そして、厄介なのはグリーンです。比較的小さめなグリーンは砲台も多い上にアンジュレーションが強くて転がりも良いという、パッティングを難しくする要素が揃っています!
長くなってしまったので、主なホールについては次回記事でお話することとします。お楽しみに!
東京ゴルフ俱楽部
住所 | 埼玉県狭山市柏原1984 |
電話番号 | 04-2953-9111 |
ウェブサイト | https://www.tokyogolfclub.jp/ |